正確には「蠶養国神社」と書いて「こがいくにじんじゃ」と読みます。
▼この文字すべて「かいこ」です。
蚕は異名で「桑子」(くわこ、くわご)があります。
そして、人間が飼育しやすいように改良したのが「蚕」と言われています。
さらに「飼う子」が転じて「カイコ」、または「神の子」から「カイコ」と呼ばれるようになったそうです。
蚕の文字はそんなところですが、
「蚕養(さんよう)」とは「繭をとるために蚕を飼育すること」で、
「養蚕(ようさん)」とは「繭をとるために蚕を飼育すること」で
文字を逆に並べても同じ意味です。
ところが「蚕養(さんよう)」は「こがい」とも読むそうです。
ここまできてやっと「こがい くに じんじゃ」が少し分かってきました。
▼地元の方でないと誰も正確に読めない神社は「会津若松駅」からですと徒歩11分。
神社鎮座地の町名も「こがいまち」です。
▼蚕養国神社の創建は811年と伝わり、式内社とされています。
▼古い石の鳥居の扁額には「蠶養宮」と書かれています。
養蚕は山間部の現金収入手段として多く見られた産業で、ここ会津も盛んだった時期があったのでしょう。
養蚕から生糸の生産、絹織物に連想させられるのは、
今は何と言っても「富岡製糸場」でしょうか?
さらに米沢藩主「上杉鷹山」や「あゝ野麦峠」などが思い出されます。
「鷹山」は傾いた米沢藩で特に「織物業」に力を入れ、養蚕業・絹織物へと発展させています。
「あゝ野麦峠」は副題が「ある製糸工女哀史」とされ、吹雪の中を危険な峠道を越え、懸命に就業し生きた飛騨地方の農家の少女たちを描いたノンフィクションです。
「鷹山」は江戸時代、「あゝ野麦峠」は明治から大正の描写、
「富岡製糸場」は明治5年に操業され、長い時代を経て1987年操業を停止しています。
日本の養蚕業は早くも弥生時代には中国から伝わっていたそうでが、江戸時代までは生産量も貧弱で、絹製品は主には中国から輸入されていました。
その間の努力によって輸入品に劣らぬ品質・量が生産できるようになったは幕末時代です。
その後、明治に入り隆盛期を迎え「富岡製糸場」「あゝ野麦峠」の時代になります。
しかし、第2次大戦と1940年の「ナイロン」の発明で養蚕業は、ほぼ壊滅しています。
▼それでも「神威赫赫(しんいかくかく)」たる力は現在にもおよび、遺伝子組み替えカイコの飼育・まゆ出荷など、新たな養蚕業が始まっているそうです。
▼繭ひとつひとつにも様々な人の喜び哀しみ努力が、思いっきり詰まっているのでしょう。
▼「峰張桜」は、1000年間「こがい」の歴史をジッと見守ってきた神木です。
「蚕養国神社」は珍しい名称ですが、
googlemapで検索してみると上田市にも見つかりました。
そちらは「大星神社」の境内社でした。