▼あちらこちらで「・・・巡り」というのを見かけるようになりました。
「横濱開港神社巡り」が現在も活動しているのか不明です。
▼オリジナル朱印帳もあるみたいです。
▼横浜ネイティブではありませんが、御朱印目当てではなくてもよく出かける街です。
「みなとみらい」などの新しい街より、元町とか中華街がお気に入りですが、休日はまともに歩けません。
▼ひとつ裏の仲通りを歩くことが多いのですが、ここも人通りが多くなりました。
近年は東京横浜の有名な商店街だと、裏通りも目を覚ましたように店舗ができ人通りが多くなり、もはや裏通りと言えなくなっています。
▼その例は中華街が典型的で、裏通り、路地が人で埋め尽くされて、全てが表通りになっています。
その中華街はかつては海で、人ではなく、土で埋め尽くされた土地でした。埋立地です。
▼wiki からお借りした地図ですが、中華街をピンク色にしてみました。
横浜開港前からあった地図下方の横に長く伸びた浜「横浜村」から内陸側の入江に向かって埋め立てられました。
周囲の土地と比べると中華街だけが区割りが45度になっているという、不思議な構造を理解できるような気がします。
▼google などの地図と方角を合わせると、こうなります。
さらに時代を遡ると地図上でグリーンにした部分まで入海でした。
つまり現在の中区から南区までは三角形の海で、当然、伊勢佐木町、阪東橋、吉野町なども海の中でした。
そして上の地図でグリーンにした広大な部分を埋め立てた男がいます。
材木商 吉田勘兵衛は幕府の許しを得て、1656年に埋め立て、新田開発の大工事にかかりました。集中豪雨や防潮堤が度重なり崩れるなど難工事につぐ難工事だったそうで、一時、中断しながらも完成したのは10年後の1667年です。
ユンボもない時代に、ほぼ人力だけで広大な海を埋め立て田畑にできたのは、10年間という時間さえ短期間で終えられたのではないかと驚かされます。
35万坪にも及ぶ新田は、当初はその形から「釣鐘新田(野毛新田)」と呼ばれ、現在は新田開発者の名をとって「吉田新田」とされています。
▼その埋め立てられた新田の、海側から見たら三角の頂点、釣鐘型のいただきの位置に鎮座するのが「お三ノ宮」日枝神社です。
開発された新田住民の安寧と五穀豊穣を祈り、江戸の山王社(赤坂日枝神社)を勧請し、1673年に創建されました。
山下公園から神社まで直線距離で3kmほどですが、今ではここまでが海だったとは誰も想像できません。
「お三ノ宮」の通称は由緒によると、山王宮→山の宮→おさんの宮と転訛していったことと、もう一つ「お三の人柱伝説」も絡まって「お三ノ宮」と呼ばれるようになったそうです。」
当時のさまざまな難工事の折には「人柱」を立てたという話をよく聞きます。
ここの吉田新田開発も行き詰まる難工事を知って、「お三」という女性が自ら犠牲になって、現在の神社裏にあたる波打ち際から海に身を投じて人柱になったという哀しい伝説が残りました。
伝説ですので信憑性、どこまでが本当なのか全くわかりませんが、明治以降も「おさん」をモデルにした芝居が伊勢佐木町でも数多く演じられたそうです。
まるで「八百屋お七」です。
一旦芝居に人気が出ると、さらに面白おかしく脚色され、真実か物語かライン引きできなくなります。
いずれにしても新田開発が大難工事であったからこそ、そんな伝説や芝居になったのでしょう。
今でこそ宅地造成開発や街の再開発など、どこも工事はアッという間に完成されてしまっているイメージですが、近代以前の開発や開拓には想像を絶する労力と時間が必要であって、成し遂げられれば、まさに偉業と称えられるのでしょう。
そんな吉田新田開発の偉業をなしとげた吉田官兵衛の子孫は、現在も同地で不動産関連事業を続けていらっしゃるそうです。
神社境内の古木たちだけが唯一、吉田新田の300年以上の時間と変化を見続けてきたかもしれません。