▼圓瀧山 光明院 東照寺(曹洞宗・横浜市港北区綱島西1-13-15)
「瑠璃光明界」初めは「羽」と読んでしまいましたが「明」でした。
寺名から本尊は薬師如来と予想できますが、曹洞宗だった事は予想外でした。
禅寺の本尊は「釈迦如来」が多いけど、どうもこの図式に定型はないようです。
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東京の東の位置する23区内に住んでいる者にとって、西側の土地勘は少ない。
ましてや、多摩川を越えて神奈川に入ると細かい部分はイイカゲン。
川崎も横浜も境界線はボンヤリしてて、まさか川崎市が多摩川にへばりつくように細長く、多摩川の河口から川上に延びて、南から横浜市に圧迫されるような形状にあるとは、ほとんどの東京人は知りません。
横浜港北七福神は「横浜」の冠をつけてはいるものの、各寺はすべて市内の北部に位置して川崎市と隣接する「港北区」にあります。
東京から中原街道を南下、多摩川に架かる丸子橋を渡ると神奈川・川崎市に入り綱島街道に続く。「新丸子」「武蔵小杉」「元日吉」を過ぎると、すぐに横浜市に入り「日吉」「綱島」と続きます。
▼横浜七福神3ヶ所目の布袋尊の「東照寺」は東横線「綱島駅」近く、いや駅前と言っていい場所にあります。
車だと混雑していて、たどり着くのに少々厄介な場所。
▼駅に近い商店街は常に賑やかですが、借りた写真だから人がいません。
そんなゴチャゴチャした綱島駅前ですが、「綱島」と言うくらいだから昔は「島」だったに違いない。海に浮かんだ島か、川にあった島か、水田に浮かぶ島だったのかわかりません。
そしてもっと驚くことに綱島のかつては「温泉街」だったのです。
▼半世紀前ほどの「綱島温泉」。
(横浜市立図書館 横浜市立図書館 ホームページ から拝借)
確かに現在でも綱島には銭湯や温泉施設はあります。
しかし戦後の最盛期には「東京の奥座敷」「関東の有馬温泉」と言われ、宿は80軒、芸妓も150人ほどいたそうだ。進駐軍の特殊慰安所的役割も果たしていたとか。
戦後からバブル期まではどこの温泉街も怪しげな、いかがわしい雰囲気・施設をもっていたようだが、綱島温泉も時代の変化とともに徐々に衰退、トドメは新幹線開通で温泉客を熱海や伊豆に持って行かれたようだ。
今はすっかり住宅街となって、当時の面影は全くない。
▼そんな温泉街の変遷・歴史を目の当たりにしてきただろうと思われる東照寺。
総門で「掃除小僧(地蔵?)」と「六地蔵」がお出迎えです。通りから境内は仕切りがなくオープンなイメージ。
▼石造りの布袋尊は満面の笑顔。正月とはいえ、恥ずかしいような、羨ましいような笑顔。このくらいの笑顔になれれば誰からも好かれそうだ。
▼聖観音は笑っていられない。人々の難しい願いをどのように叶えさせようかと沈思黙考中。
▼「生物慰霊碑」牛と鹿かしら? この寺の立地ではペットの埋葬は受け付けないだろうに?
本堂に近づくと「お囃子」が聞こえてきた。正月らしさを増幅させる音色だけど、寺に「お囃子」は初めての経験。「囃子」の目的を思えば、当たり前に寺でも「アリ」だ。
▼小学生らしき数人の太鼓の音。
▼みんな真剣に太鼓と向き合っている。
聞くと前日までの3が日は神社で演奏していたとか。そうか、この子達は遊びにも行かずに「お囃子」演奏で正月が終わってしまうのか? 「食っちゃ寝」や「屠蘇三昧」の大人は恥ずかしいわっ!
▼本堂内に布袋尊はいらっしゃいました。恥ずかしい大人を詫びます!
祀られている七福神の神々は大概小さい。双眼鏡が必要なくらい小さい。秘仏のこともある。まぁ、個人的にはあまり大きいとアリガタミや神っぽさは薄れるわね!
横浜七福神の御朱印はほとんど本堂内でいただきます。正月も4日はどの寺も混雑は見られず、御朱印もスムースにいただけます。
私の後で順番待ちをしていた女性に、私がいただいた2つの御朱印を指しながら「こちらの印は・・・?」と尋ねられる。「あっ、はい、七福神とご本尊です!」
背後で「ご本尊もお願いします」とその女性の声。
イイんですよ!
でも今度からは訪れた寺の本尊が「薬師如来」か「阿弥陀如来」か「釈迦如来」かなど、理解してると、堂々と「ご本尊もお願いします!」と言えるわよ!
さらに高まる「お囃子」に追い立てらるように「奥座敷」を後に次の寺に向かいます。
▼「横浜港北七福神」7寺院のまとめ記事。