繊細なラインの御朱印は、2体とも客殿入口でいただいたのですが、この寺の公称は「大御堂寺」だそうです。ということは「野間大坊」と言うのは通称?
どちらでも良いのですが・・。
▼野間大坊案内看板には「大御堂寺本堂」とあり、片や「野間大坊客殿」とあります。
大御堂寺と野間大坊の使い分けが良くわからなくなってしまうわっ。
この看板は「野間大坊本堂」じゃダメなのだろうか? もしくは「大御堂寺客殿」?
きっとワタシだけだしょうけど、当初は大御堂寺と野間大坊は2つの別の寺だと思っていました。
ちょっと調べれば理解できたことでしょうね・・・。
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今回の愛知県への旅は朱印が主目的ではないから空いた時間で寺社を訪問しています。
だから前回までの記事、11月23日は3ヶ所だけ朱印をいただいたのみ。
翌24日は、愛知県は知多半島南端の2ヶ寺だけ訪問してみます。
蒲郡市や隣接する西尾市は、その昔は沢山の海水浴場があったそうだが、当地を襲った伊勢湾台風以後の護岸や、工業化のための埋め立てなどで今やビーチはないに等しい。
しかし、同じ三河でも中部国際空港よりさらに南の知多半島南端には、伊勢湾沿にまだ綺麗な海水浴場があり、夏は名古屋方面からも多くの人々がやって来ます。
▼内海のビーチも南知多で代表的な海水浴場。また「平治の乱」で敗れた源氏の棟梁「義朝」が落ち延びてたどり着いた浜でもあります。
このビーチの最寄駅、名鉄知多新線の終点「内海駅」の1つ手前に「野間駅」。
「野間大坊」は駅から伊勢湾岸方面に500mもありません。
▼車利用だと駐車場からは、いきなりこんな古い校舎のような建物の前に出ます。
建物は「信徒会館」だそうですが相当年季が入っています。映画ロケにでも使われたかもしれません?
▼寺はオープンだから近所の人たちの散歩、のんびり安らぎの場所でもあるようです。
しかし言い伝えでは、この寺は源頼朝の父 義朝が平治の乱から落ち延びて匿われたが、家臣の身内の裏切りにより暗殺された最期の地でもありますから、
義朝の悔しさ、無念さを思うとノンビリ散歩もしていられません。
1000年近くも前の話になるから多くはアヤフヤで、伝説も史実も分別不能。
▼義朝は風呂に入っている最中、無防備のまま果てた事になっています。巡礼者、寺好き、仏像マニア、ゴ朱ラーもさることながら、歴女などと呼ばれる歴史好きには、一度は訪れたい寺。
大河ドラマ「平清盛」が放映されていた数年前は大変な人出だったに違いない。
▼境内側から見た頼朝が1190年に創建した「大門」。山門でも、三門でもなく「大門」。
▼鐘楼は鎌倉五代将軍の寄進とか。鎌倉五代? 実権はともかく、五代はまだ源?
梵鐘は「建長二年」の銘があるそうです。いつなのだ? 鎌倉時代、1250年頃なのだ。アバウト800年前!
創建はさらに古いのですが、本堂などの伽藍はその後の頼朝が菩提を弔うため整えたとか。
▼サビサビとした本堂。
堂内には入れません。格子戸越しに本尊の阿弥陀三尊像らしきお姿が・・・。
▼本堂右手奥に義朝の廟所があります。
▼墓は異様な姿をしています。
暮石の周りは藁なのか、枯れ草なのか・・・で覆われている、と見えたが違いました。
義朝の無念の最期を弔うべく「木太刀」が奉納されていて、その「木太刀」が暮石の周りを覆っていたのです。
有名な「我に小太刀の一本でもあれば・・・」という、義朝の最期の言葉に思いを馳せて、鎮魂の供えなのねぇ。
▼義朝の家臣「鎌田政家」の墓が同じ廟内にある。義朝殺害の前日に同じく殺害されたとか。
▼「血の池」よくある名称。池の言い伝えはたくさんあるんだけど・・・。
▼五重の塔跡地と「悩み不眠除け稲荷」というユニークな稲荷。
▼「客殿」と称する建物方面へ向かいます。
お砂踏みがあり、その手前に小さな地蔵尊が並べられていました。
客殿の本尊が延命地蔵菩薩。そして頼朝の念持仏が地蔵尊らしいから、寺のあちらこちらに地蔵菩薩の小仏があるのかな?
▼複数の霊場札所となっています。
この札所の数だけ朱印をいただけるという事になる?
▼客殿は伏見桃山城の一部を移築、愛知県の重要文化財らしいが、なぜかその風格は失われ雑然としています。
客殿広縁には土産物屋のごとくお守りや絵馬、その他諸々が並んでいます。
▼素晴らしい地蔵の彫り物ですが、この類の物を購入すると最後はゴミにしてしまうバチアタリですから、極力買わない、持ち帰らない!
▼撫でたり、さすったり、持ち上げたり、息ふきかけたり・・・忙しい「厄除け人形」
▼間もなく12月に何の花? と思ったが、おそらく南天の実なのでしょうか? 客殿の屋根の上に青い空と赤い実、印象に残ります。
今回のブログタイトルの副題を「わが墓はそこに立つ」にしていますが、何のこっちゃ?と誰しもが思うでしょう。
「野間」にやって来て、義朝の墓である小さな「塔」を見た。野間と塔?
野間宏の塔を連想せずにいられない、「わが塔はそこに立つ」。
東寺の塔とは、高さも明暗も全く違うわねっ!
荒唐無稽でした!
野間大坊からは海は見えないけど、境内の土の白さに海が近いことを感じさせられました。
きっと境内を裸足で歩いたら気持ち良く、そしてそれを誰も不思議に思わない、訝しまない寺なのでしょう。
コンクリートや石で固められている部分が少ないだけ素朴さを残した、境内の白さと、南天の赤さが脳裏に残った寺でした。