日本橋、谷中とともに深川七福神は以前に掲載済みだが、七福神のまとめとして再登場。
少しはブログ訪問者の役に立っているのだろうか?
なんて言葉は、このブログ当初の目的から逸脱している。
イイんです、固定されて、変化しない事物は何一つない諸行無常だから。
悲惨で奇怪な事件だった。何が起こるか分からない無常。この神社の運営はしばらく辛いものになるかもしれない。
マスコミでは拾いきれない部分もあるはず。正確な情報は分からない。少なくともニュースか、バラエティ番組なのか分からないような情報に惑わされないようにしたいよ!
4000万歩の男も思わず脚が止まるようなニュースだった。
深川七福神は、伊能忠敬が歩いた距離の1万分の1くらいの歩行距離になる。ユックリ歩いて、寄り道しても2/10000くらいかな。忠敬は気の遠くなるような道のりを55歳にして歩み始めた。彼に比較したら現代の人間は皆な歩きは苦手だ。
▲同 神社印。
深川七福神は、嬉しいことにたくさんの幟が道案内してくれる。
▲辯財天/冬木辯天堂・東京都江東区冬木
▲福禄寿尊/双修山 心行寺・浄土宗・東京都江東区深川
なんて素晴らしい「圓」なんだ!
まさに街角のお稲荷さん。普段は無人。
こんなデザイン性の高い「寿老人」は見たことがない。
▲寿老人/深川神明宮・東京都江東区森下
▲同 今年いただいた神社印。
七福神というのは歴史的に古くからのものは、そんなに多くないはずだ。
古くは室町時代に始まるようだけど、江戸時代の府内に多くの七福神があるのは考えにくい。
時は移って現代、東京だけで思い描いてもいくつあるのか数えられないくらいだ。だから近代から現代に創設されたものがほとんどだろう。
今回の「深川七福神」も古いのか新しいのか微妙で、明治期の創設らしい。
さまざまな巡礼地、札所が時を重ねる中に努力と、意図せぬ栄枯盛衰を繰り返してきたようだ。
例えば、今、御朱印に熱中している人のほとんどは7、80年前の戦争は誰も経験してない。ところがその戦時中は七福神なんて、ほとんど消滅に近い状況にあったはずだ。
戦時中の若者は戦争に駆り出され、残った婦女子はバケツリレーに駆り出された。理不尽な時代で、まずは飢えないで食べられる事が先だ。七福神どころの騒ぎではない時代は戦争前後10年くらいはあったのではないか。
国の方向の選択は後になって間違いだった事を知り、修正され、七福神も生き残ってこれたのかしら。神仏分離なんてのもヘタだった。誰もが進行中は間違いだと気づかないから・・・。
一方、日本橋七福神は「戦時中、お詣りに行った兵隊は100%帰還した」そうだ。
わからないもんだわねぇ!
帰還はともかく、2度と悲惨な時代を繰り返すわけにはいかない。
今や情報がマルチで過多であるだけに真実はどこにあるかわからない。
インターネット、テレビ、ラジオ、新聞、週刊誌、ほとんどが正確な真実を伝え難い。それぞれの思惑が相当入っている。
情報の見分けを誤ると、昔の危険な時代と少しも変わらぬマスコミに流される国民になってしまう。