▼同じく本尊 聖観世音菩薩(豊島八十八ヶ所霊場80番札所)の御朱印。
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▼安養院から西光寺まで、今度はゆっくり歩きました。でも15分をオーバーしません。
▼山門に続くブロック塀は途中から金属製のフェンスになったりして、寺域をグルッと囲んでいました。域内には幼稚園もあります。
▼寺全体はこじんまりとしていますが、箱庭のように感じられる整えられた庭がリラックス空間にもなっているのでしょうか、参拝者が絶えない寺です。
▼創建の不明な寺ですが、板橋七福神の他の寺と同様、江戸時代初期で家光の時代と推測されるそうです。
▼七福神「布袋」さんは、ここも本堂正面に開帳されていました。木のフェンスがあって間近には対面できませんが、まぁこのくらいの距離のほうが有り難みがあって良いかもしれません。
板橋七福神は、ほぼ全ての寺で間近にというか、手に触れられる近さで尊像が祀られています。
具体的な距離が近いと、より親しみや身近さを感じます。
しかし、その威厳さや有り難みは距離の多さと比例するかもしれません。
七福神めぐりは、ある側面では一般庶民が育てられたものですので、神の威厳さより親しみや、近さが一番かもしれません。
▼本堂脇に「しろがき地蔵」と記された地蔵を祀るお堂があります。それにしてもいろんな名称の地蔵があるものです。
寺の裏の通りの坂は、その昔は「地蔵坂」と呼ばれていたそうです。
江戸時代のこの寺は「しろがき地蔵」で有名だったかもしれません。
今では想像も困難ですが、当時のこの地域は水田が広がっていたそうです。当時、田植えを明日に控えた水田の「代(しろ)がき」を終えられず困っている農民に代わって、地蔵が一夜のうちに「しろがき」を終え、翌日、農民は無事田植えをすることが出来たたそうです。
▼その時、地蔵の脚は泥で汚れていたそうです。「日本昔ばなし」です。
しかし何らかの事実らしきものがないと「はなし」は作れません。
当時の人々が農作業、米作りの熱心さと、同じように地蔵に対する素朴な信仰心の熱心さが、そんな伝説を作り上げたのでしょう。
▼箱庭のような一角にある庫裏も、とても良い雰囲気です。ご朱印は右側の「花頭窓」っぽい窓口で、ハリきって記帳いただけます。
▼ちなみに板橋七福神は、すべてこの数字で統一されています。
昨今、同じ七福神内でも朱印帳への押印代は寺によって異なり、バラバラなことが多いなか、板橋は分かりやすく統一され「板橋七福神会」がしっかり機能していることが理解できました。