▼同じく「四神」をモチーフにした朱印帳。 -----------------------------------------------------------------------------------------------------
平安神宮の祭神でもある第50代 桓武天皇は、奈良 平城京での仏教勢力や貴族の影響力に嫌気もさしていて都を長岡に遷しますが、10年の間に天災や祟りと感じられる多くの災いに見舞われます。
▼そして再び遷都したのがここでした。
▼この地が選ばれたのは、朱印帳にもデザイン化されている「四神相応」の地であったからとも言われています。
「四神」は
「玄武」=北の丹波高地
「蒼龍」=東の大文字山
「朱雀」=南の巨椋池
「白虎」=西の嵐山
と当てはめられる京都が「四神相応」の地とされたとも言われていますが、
青龍=鴨川、白虎=双ケ丘もしくは西山、山陰道、朱雀=巨椋池、玄武=船岡山・北山という説もあり正確なことはわからないようです。
当時ですので科学的な根拠で選ばれたはずはなく、いわゆる占い・八卦によって決められた都です。
平安京の大内裏を模して作られた平安神宮ですが、当時の大内裏は平安神宮よりずっと西にあり、御苑の先、二条城の北あたりにあったそうです。
時代は決して平安ではなかったのですが、いずれにしても794年の遷都から明治に至るまでの千年の間は日本の都だった訳です。
行政の中心は鎌倉、伏見へそして江戸に移り、商業の中心は大阪に移っていきましたが、首都は京都であり続けたのでした。
平安京は東西4.5km、南北5.2kmだったそうなので、現在の京都の街よりはるかに小規模なものだったようです。
そして平安時代末期には京内で戦の頻発、荒廃、政情不安により、清盛が福原に一旦遷都しますが、たった半年で元の京都にに戻ります。
さらに応仁の乱で京都はすっかり荒廃、衰退し、再び街として復興するのは室町時代に入ってからのことでした。そして千年後、幕末を迎え天皇は東京に移りました。
それからは戦時中の空襲は避けられたものの、しばらくは京都は忘れられたような存在だったのではないでしょうか。
確かに古都であり、歴史的・文化的に学ぶものの多い京都は、戦後の修学旅行などでは選ばれることの多かった街です。
しかし現在につながる観光でにぎわう街、とりわけ女性たちに人気の街になったのは、1965年にヒットした歌謡曲「女ひとり」や、同じく1970年の「京都の恋」あたりからで、さらに平安遷都1200年に当たる1993年の「そうだ京都 行こう」のTVCMのキャンペーンが成功し、続けて追い討ちをかけた世界遺産登録が古都の観光的位置を決定づけ、外国からの観光客が必ず訪れる街となったと言ってもいいでしょう。
その観光的繁栄は、まだほんの半世紀にも満たない時間です。
いつまでも美しい部分を持った古都であり続けてほしいものですが、50年後、100年後も変わらぬ古都であることなど誰も保証してくれません。
京都に暮らす人たちをはじめ、国民すべてが守っていくべき財産であることは間違いないのでしょう。
1200年前、内裏に立つ桓武天皇の眼に映った平安京は、この平安神宮と大きな違いはないかもしれませんが、一歩、宮を出て京都の街を目にしたら目をひん剥くに違いない古都でしょう!
▼金髪の方にはこういうものがお気に入りなのでしょうか。
▼「四神」のひとつ、西の「白虎」です。この右側に「蒼龍」の手水もあり、それぞれ白虎楼、蒼龍楼とで対になっていました。
平安神宮は大勢の観光客でも、そのだだっ広さの中に騒々しさも吸収していましたが、▼さらに静かな路地裏で一休みします。
意味不明な店名ですが、
▼抹茶ラテの渦も、店内も時が止まったように静寂に満ちていました。