▼同じく、鑑真大和上の御朱印。
▼同、御朱印帳です。
唐招提寺の朱印帳は現在数種類あるようですが、2014年当時はこの1種類だけだったと記憶しています。
千手観音をモチーフにしているようですが、千手観音のどの部分をモチーフにしているのか全くわかりません。光背なのでしょうか?
当時はそんなことより、紺地に炎が燃え立つような金色のデザインは、ほかの朱印帳を抜きん出ている秀逸さを感じ、とにかく一冊手にして見てみたいと思っていました。
ご存知のようにその後は、デザイン的にも素晴らしく思える朱印帳が巷に溢れかえるようになりました。
数が多いと稀少感覚はマヒします。
現在に至るまで、この朱印帳に対して抱いた思いは、二度と体現できていません。
ちなみにこの唐招提寺の朱印帳がオークションサイトに見かけられました。3800円という数字がついていました。
まだまだ、そんな愚か者がいることにタメ息です。
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▼唐招提寺は「鑑真和上」です。
流れるような瓦が美しい「天平の甍」です。奈良を最初に訪問したのは、奈良をよく知らない頃、理解できない年齢の頃でした。
その後、井上靖の「天平の甍」を読み、「鑑真」を知って、2度目の奈良訪問には是非とも訪れたい寺社の一つになりました。742年、堕落する奈良仏教界を立て直そうと普照と栄叡は遣唐使に随伴して「伝戒の師」としての高僧を唐に探しに出ます。普照と栄叡の2人に請われて、弟子たちが尻込む中、55歳の鑑真自らが応じます。鑑真の苦難の10年間の始まりでした。
日本への渡航を試みること数回。
唐の時代、高僧が日本に渡ることは密航同然。さらに、海の難所の東シナ海に航路をとる危険な渡航計画は、密告や遭難などという挫折と立ち直りの連続。その間、栄叡が亡くなり、鑑真も失明しますが、当初の計画から10年目、不退転の決意は6度目にしてやっと成功、753年に漂着同様な形で薩摩に上陸します。
その時、鑑真はすでに64歳。心に激情を抱いた驚愕する不屈の精神の持ち主です。
その後、東大寺大仏殿に戒壇を築き、上皇から僧尼までの大勢に戒を授けたそうです。
▼ここ唐招提寺を創建し、戒壇を設置したのは759年。そして4年後の763年、76歳で亡くなり、鑑真の弟子が造らせ、国宝に指定されている肖像彫刻像が開山堂で眠っています。世界遺産となっている唐招提寺伽藍ですが、鑑真が存命中に建てる事ができたものは講堂だけでした。金堂が建立されたのはさらに20年ほど後の事でした。
東大寺では「お国にこれほどの大仏がありますか」と良弁に問われ、2年前に完成した大仏を前にしても、目も見えない鑑真は「さらに無し」とだけ答えています。
「今更、唐の国の方に教わるものはありませんよ」と言わんばかりの良弁の言葉に、鑑真が日本で築こうとした計画は容易に達成できるものではないことを感じた瞬間かもしれません。
▼鑑真が挫折を感じたかもしれない、心の中では失意の晩年を送ったかもしれない、そんな時代の都の大極殿が復元されています。
▼平城宮の東に張り出した部分の東院庭園。現在で言えば迎賓館のような役目を果たしたそうです。1200年の彼方、大仏同様、既存の巨大な権力が鑑真の前に立ちはだかる様子が見えてきそうな平城宮跡でした。