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御朱印迷宮

関東を中心とした寺社の御朱印記録です。参拝・収集目的に少しでも役立てば幸いです。

光触寺の御朱印(神奈川・鎌倉市)〜頬焼阿弥陀に塩嘗地蔵を知る

岩蔵山 長春光触寺御朱印

こうそくじ時宗・本尊:阿弥陀三尊(神奈川県鎌倉市十二所793)

御朱印に書かれた多くの文字は、おおよそ正しく読めますが、

光触寺光觸寺」だけは、当初「こうしょくじ」と読んでいました。

どうして「しょく」ではなく「そく」と読ませるのか分かりません。

似たような字で「ローソク」は「蝋」と書いて「そく」と読ませますが、

篇が「角」と「火」で異なります。

旁の「蜀」の読みは「しょく」です。

人の名前と同じで、漢字に対してその読みは柔軟性があるということでしょうか?

 

光触寺御朱印です(2023年)。「鎌倉二十四地蔵 第五番

光触寺御朱印です(2013年)。「鎌倉三十三観音 第七番

御朱印をいただくには本堂向拝の左の柱にあるブザーを押します。

すると本堂の障子扉から僧侶さんが現れ、御朱印をお願いすることができます。

本堂の右奥に大きな庫裏が見えますが、そちらには 進入して欲しくないようです。

 

▼光触寺は鎌倉の東の外れの「十二所」にあり「鎌倉駅」からは3.2kmあります。

明王院方面から向かうと、金沢街道を右に外れ滑川に架かる「光触寺橋」を渡ります。

▼その橋を渡ると小高く位置する山門が見えてきます。

鎌倉中心街から東に離れ、この先の東にはもう名の知れた寺社はありません。

そんな交通不便な位置にある寺でありながら、霊場御朱印を求める人の他にも訪問客がちらほら見かけられます。

時宗の開祖は一遍

光触寺は、その一遍を開基として1278年に創建されています。

鎌倉仏教のひとつで総本山は同じ神奈川県の藤沢市にある「遊行寺清浄光寺)」であることから、鎌倉には光照寺来迎寺教恩寺など時宗の寺院が少なくありません。 

 

▼鎌倉の観音霊場、地蔵霊場であることを示す石柱も立ちます。

▼「頬焼阿弥陀」と書かれた古い石碑。

頬焼阿弥陀(ほおやけあみだ)」とは、当寺本尊の阿弥陀如来像の通称で、

盗みの疑いをかけられた法師の身代わりになり、頬に焼印が残ったという鎌倉時代のエピソードが伝えられています。

その伝承が描かれた絵巻とともに阿弥陀如来像は国の重文にしてされていますが、通常は非公開です。

山号の「岩蔵山」は音読みで「がんぞうざん」。強そうな名称です。

山門は江戸時代中頃に建立されたものです。

▼山門をくぐると気持ちの良い参道がのびています。

▼その参道の先に踊念仏衆生済度を広めた時宗の開祖「一遍」立像。

上人像から山門を振り返ると左右は山、鎌倉の街は遥か前方です。

▼あまりにも有名な一遍像ですが、本ブログは、似たような僧で世俗の者に念仏信仰を弘めた空也と重なり混同してしまいます。

▼一遍蔵の先に六地蔵の奥に「塩嘗地蔵しおなめじぞう)」です。

塩嘗地蔵」の伝説は、

鎌倉の外海、六浦から鎌倉の中心地へ向かう塩売りが商売繁盛を願って地蔵に塩を供えていました。

しかし、その帰りに地蔵に立ち寄ると供えた塩がいつもなくなっていました。

この地蔵さまが塩を舐めてしまったのだろうということから「塩嘗地蔵」と呼ばれるようになったそうです。

地蔵像に塩はよく見かけます。当然ですが同じく白い砂糖はまったく見かけません。

▼「鎌倉二十四地蔵 第五番」の本尊にご挨拶です。

▼そして、やっと「本堂」です。

▼こちらに「頰焼阿弥陀像」が安置されているようです。

鎌倉三十三観音 第7番」の本尊 聖観音像もこちらにいらっしゃるのでしょう。

▼本堂右手に庭園へと進む小径。

法要以外の方の入所お断り致します」の看板をみて鼻じろみます。

残念ですが、観光寺でもないのに境内や庭園を信仰心も持たない人々にウロウロされるのは迷惑に違いないかもしれません。

綺麗な建物は庫裏らしき様子で庭園も手入れが行き届いています。

▼境内の外に出て高台から見た本堂です。

 

一般的に鎌倉の観光的には向かない寺ですが、本尊や地蔵のエピソードを知ると興味深く訪問することができる光触寺です。

 

 

wave2017.hatenablog.com

荏柄天神社の御朱印(神奈川・鎌倉市)〜「三天神社」の1社は900年の古社

荏柄天神社御朱印

えがら てんじんしゃ主祭神菅原道真(神奈川県鎌倉市二階堂74)

10年間という時間の隔たりがある2体の御朱印に大きな違いはなく、散りばめられていた神紋の梅鉢紋が、23年では神牛と梅紋が一緒になったものになっていました。

 

荏柄天神社御朱印です(2023年)。

 

荏柄天神社御朱印です(2013年)。

御朱印は境内の授与所左手でいただきました。

23年は書置きのみの授与で、直書き再開は未定とのこと。

 

▼当社鎮座地の住所は鎌倉「二階堂」。

鎌倉時代に頼朝の邸宅、将軍の御所があった「大倉」と呼ばれていた地域の東端になります。

バスは鎌倉駅から主な観光方面に数多く運行されていますが、当社へは徒歩10分以内の八幡宮などから歩いて訪問する人が殆どでしょう。

 

鶴岡八幡宮から歩いてくると、ここが当社の入口になります。

▼2013年には上の写真の社名が書かれた横長の看板はありませんでした。

実はここは「ニノ鳥居」で「一ノ鳥居」は200m以上南の金沢街道に面して建ちます。

ニノ鳥居前は周囲に木々がゴチャゴチャしていて鬱陶しいのですが、

▼それを潜って振り返ると松の木クロスしているのがハッキリします。

かつては松並木となっていた参道で、

残された松が偶然が創った結界である「X」なのかもしれません。

この松の木に龍の顔が見つけられるそうですが、不徳にも本ブログは見つけられませんでした。

 

▼写真がありませんが「一ノ鳥居」も、この「ニノ鳥居」同様朱色です。

▼クロスした神木と鳥居をくぐると参道は100mほど延びています。

▼神社は小高い位置にあることがわかります。

▼楼門までの石段はそれなりな急勾配を持っています。

▼石段の手前左手に建つのは「菅公一千年祭」の記念碑。

▼参拝者の皆さんは勢いよく石段を上がります。

山の斜面を削って平坦地を造成の上、社殿が建てられたようです。

▼楼門に掲げられている「天満宮」の古めかしい扁額。

▼正月8日の訪問は、石段先の境内も参拝者の列が長く「手水舎」の撮影もこの有様。

▼拝殿前から広くもない境内にいっぱい、いっぱいに列が延びていました。

正月8日の鎌倉とはいえ、神社以外の有名寺院ではこんなには並びません。

鎌倉に限ったことではないでしょうが、願い事を聞き入れていただくのは寺院より神社に人気があるようです。

同じようなご利益、お守り、絵馬、おみくじが揃っていたとしても、神社に対する人気の方が勝るようです。

当社の列も受験シーズンともなれば境内外の石段下にも長く伸びるとか。

由緒によれば荏柄天神社は、

1104年8月25日、空が突如暗くなり雷雨と共に黒い束帯姿の天神画像が天降り、里人がこの神験をおそれ降臨の地に社殿を建て、その画像を納め崇拝したのが起こり、とされています。

他の天神社のように太宰府や京都から勧請されたのではなく、

画像はいえ天神自らが天から降りてこられた古社ということで、太宰府天満宮北野天満宮とともに「三天神社」を名乗る名社だそうです。

▼拝殿の壁にぎっしりと下げられた絵馬も黒装束姿の天神、道眞のようです。

美しい社殿は関東大震災後、1936年に本殿を修理、拝殿を再建されています。

鶴岡八幡宮若宮社の本殿であった国の重要文化財としての本来の本殿、はこの建物の中にあるのでしょう。

鎌倉の大倉に幕府を御所を構えた頼朝は、この社が鬼門に位置することから、守護神として崇敬し、社殿も新たに造立したそうです。

その後も足利氏、北条氏、秀吉、家康と、時の権力者の庇護を得てきたそうです。

▼境内右手にも鳥居が建ちます。

崖に設けられた石段を上がると、さらに鳥居。

当社のHPの境内図や、由緒書きには何も説明されていませんが「熊野権現」でした。

▼鎌倉特有の「やぐら」の奥に石造りの小祠が社殿でしょう。

このような住まいの熊野権現は他では見当たらないでしょう。

 

▼境内に戻って、社殿右隣の建物は「神輿庫」。

なぜか「八雲神社」の提灯が下げられています。

2月初旬ともなれば梅の花もほころびます。

▼社殿左手のスペースです。

▼学問の神・菅原道真に因んだ「カッパ筆塚・絵筆塚」があります。

▼絵筆塚は見上げるような高さ。

▼154人の漫画家によるカッパキャラクターのレリーフがありました。

漫画家清水崑のちょっと色っぽいカッパもありました。

 

▼推定約900年の大銀杏。

社伝によると「天神画像」が天降った地を、踏まれないように銀杏を植えたと伝わっています。

 

鶴岡八幡宮に次いで、銭洗弁天と並ぶ人気の荏柄天神社、いつ訪れても参拝者の多い神社でした。

田端八幡神社の御朱印(東京・北区)〜江戸時代の賑わいを探す

田端八幡神社御朱印

たばた はちまん じんじゃ主祭神応神天皇(東京都北区田端2-7-2)

 

田端八幡神社御朱印です。

正月4日の参拝でしたが書置きの御朱印の日付は「吉日」。

年の「五」と、月の「一」を墨入れいただきました。

御朱印は社殿左手奥の授与窓口でいただきました。

普段は閉じていることも多い授与口ですので訪問時は要チェックです。

 

▼当社鎮座地は山手線「田端駅」から450mほどの距離です。

江戸時代まで別当だった谷中七福神の「東覚寺」に隣接しています。

東覚寺は当社の別当寺でした。

 

▼神社由緒書の隣が社号標かと思いましたが、幟用の柱でしょう。

▼このタイプのものはあまりに大きく、社号標と認識するのに時間がかかる時があります。

▼社号標から少し参道を進んだ位置に「一ノ鳥居」が建ちます。

▼鳥居手前には石橋らしき跡。かつては流れがあったのでしょうか?

そうではなく、由緒書きによれば昭和初期、暗渠とされた谷田川に架かっていたものを保存のためここへ移されたそうです。

 

▼参道を進んで「ニノ鳥居」。

▼参道途中の右手のは「神輿庫」が並んでいます。祭りの時はさぞや賑やかでしょう。

▼「ニノ鳥居」をくぐると由緒書きと、境内社がまとめられたエリアへの石段。

境内社は後ほど巡りましょう。

▼先ずは社殿に向かいます。

▼ソコソコの勾配の石段。年配者の参拝は休み休みとなるでしょう。

▼石段を登りきると右手に「手水舎」。

▼水盤は乾いていました。

▼手水舎の左手に建つ像は欠けていて不明。不動明王

江戸時代までは隣接する「東覚寺」と一緒だったので、仏像があっても不思議ではないでしょう。

 

▼石段先の正面に社殿です。

綺麗に維持されている拝殿は比較的新しそうな造りに見えます。

空襲や放火で度々焼失された社殿は1993年の再建。

 

▼社殿前の狛犬の台座には「典都五十年記念」の文字がありました。

1868年に「典都」され、都が東京になっていますから、この狛犬は1918年、大正時代の造立ということになります。

田端八幡神社の創建は1189年とされています。

奥州征討の帰りに、源頼朝が当地に立ち寄り、鶴岡八幡宮から勧請したのが起源であると伝わります。

▼祭神の「品陀別命(応神天皇)」に訪問の挨拶です。

▼石段途中にあった境内社エリアを巡ってみます。

横一直線に並ぶような境内社群に大きな魅力は感じられませんが、

鎮座地の形状を利用しながら変化と個性のある大小の境内社が集められた区域は、神秘性も感じられ魅力的なエリアとなります。

 

▼最初の左手にあるのは「三峯神社」。秩父から勧請されたのでしょう。

▼その奥は「稲荷社」。

▼丁寧に扱われていますが、小祠は傷んで屋根が欠けていました。

▼小さな狐たちが寄り添って何やらヒソヒソ話。

▼右手に青銅製の鳥居。鳥居先は富士塚のような成形。

▼ 溶岩を模した小山の上に「浅間神社」です。

かつて関東地方ならではの富士講や三峰講が盛んだったのでしょう。

 

▼境内に戻って「楽殿」や「参集殿」など。これらも新し目の建物でした。

 

正月4日、隣接する東覚寺は七福神開催期間でもあり多くの参拝者が見られましたが、当社の参拝は訪れる人もまばら。

▼しかし、江戸時代のこの一帯は名所。

田畑八幡宮」の題の江戸名所図会には当社は「八幡」と記されていて、東覚寺観音与楽寺阿弥陀第四番目などの記載も読めます。

当時の賑わいが偲ばれる田端八幡神社参拝でした。

 

▼隣接する「東覚寺」の記事。

▼「六阿弥陀」の記事。

wave2017.hatenablog.com

 

仙波日枝神社の御朱印(埼玉・川越市)〜東京赤坂日枝神社の本社

仙波日枝神社御朱印

せんば ひえ じんじゃ主祭神大山咋神(埼玉県川越市小仙波町1-4-1)

 

仙波日枝神社御朱印です。

日付のない書置き御朱印でしたので、セルフで入れました。

 

御朱印無人の神社社殿前にこのように置かれていました。

過去に訪れた時は同じく無人御朱印はありませんでした。

昨今のブーム以後、このように通常は無人の神社でも書置き御朱印が用意されているのは喜ばしく思います。

 

▼仙波日枝神社喜多院の山門東に鎮座します。

川越駅から直接歩くと20分以上かかります。

川越の社寺は車で訪問しても殆どが駐車スペースを見つけられます。

 

本ブログは京都、鎌倉、川越などの社寺が集中する街では殆どが徒歩訪問です。

▼各街までのアプローチは車利用ですので、今回の川越訪問はここに駐車しました。

▼「あぐれっしゅ川越」は、JAいるま野が経営する直売所ですが、道の駅的機能を備えています。

越中心街のはずれにあるここから川越市内を歩き回って寺社巡りをすると、かなりの歩数を歩くことになります。

この日は約20,000歩。驚くほどの歩数ではありません。

 

▼「あぐれっしゅ川越」には川越産以外に、JAやまなしのフルーツなども置いてありました。シャインマスカットは税込価格もShine!

▼昨今、野菜の高騰も続いているので高からず、安からずの価格。

でも東京のスーパーの野菜・フルーツより間違いなく新鮮で量も多少多めでしょう。

 

▼「あぐれっしゅ川越」からここまで歩いて15分ほど。「喜多院」山門前です。

日枝神社喜多院山門から道路を挟んだ向かいに鎮座します。

▼社号標は「国寶 日枝神社」と書かれています。

現在は国指定の重要文化財に指定されていますが、以前は国宝だったのでしょうか?

当社は元は喜多院境内にあったものが、大正時代にここ前方後円墳の仙波古墳群を開削して移転されました。 

860年、慈覚大師 円仁が喜多院を創建のおりに鎮守として坂本日吉大社を勧請したものであると伝わります。

驚くことに、東京赤坂の日枝神社は1478年、道灌が江戸城築城の際にこの川越日枝神社から分祀したものであるとされています。

赤坂日枝神社の実家、本家ということですが、現在の分家は大きすぎて本家とは比較になりません。

川越の他の神社とも違い参拝人の姿もなく見かけられません。

 

▼手水舎は鳥居手前の道路沿いにあります。まずは清めましょう。

重文に指定されたのは1946年。室町時代後期(1467年-1572年)建立の三間社流造、銅板葺の本殿 と、詳しく案内されていました。

▼拝殿は以前訪問の時とは違って新しくなっていました。近年再建されたのでしょう。

▼輝く飾り金具を備えた扉は固く閉ざされていました。

▼拝殿背後から朱色の瑞垣がグルッと本殿を囲んでいます。

▼重文の本殿を垣間見る隙間がなかなか見つかりません。

▼やっと見つけたられたのは本殿前の様子だけ。

▼右往左往してまさに垣間見た本殿。神社外観からは想像できない華やかな様子です。

▼記念碑後方の小高い部分ははおそらく開削された前方後円墳の名残りでしょう。

 

時の鐘や菓子屋横丁とは一味も二味も違う川越の魅力の一つでもある神社でした。

喜多院を訪れる機会がありましたら是非こちらへも参拝ください。

八雲氷川神社の御朱印(東京・目黒区)〜八雲立つ「目黒八重垣」の杜

八雲氷川神社御朱印

やぐも ひかわ じんじゃ主祭神素盞鳴尊(東京都目黒区八雲2-4-16)

 

八雲氷川神社御朱印です。

中央の印は「氷川大神御霊」でしょう。

ひかわ おおかみ の みたま」とでも読むのでしょうか?

 

御朱印は社殿右横の授与所でいただきました。声をかければ人がいそうですが・・・

▼神社名がプリントされた書置きが用意されていたので、声かけはしませんでした。

丁寧な挨拶と案内文が添えられていましたが、東京では半数以上の神社が書置きのように感じられるのは寂しい限りです。

▼当社へは東横線都立大学駅」から徒歩5、6分。

当社鎮座地の住所は「八雲」。

神社名が先で、地名は後からつけられたのでしょう。

その「八雲」は、当社の祭神 素盞鳴尊須佐之男命)が詠んだとされる最古の歌

八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」に因んでいます。

 

住宅が犇めくように建ち並ぶ目黒区の街に驚くほど深い森が残されていました。

▼その森の手前の道路で愛車の手入れをされている方がいらっしゃいました。

「ジャマなので移動してください」とは、言いたくても言えません。

▼一ノ鳥居の撮影は少し角度を取れば、車もジャマにはなりません。

どうぞ、ごゆるりとお手入れください!

 

▼鳥居をくぐると左に地蔵堂らしき祠。

江戸時代までは別当を務めていた金蔵院が当社の西にあり、その習合時代の名残でしょうが、地蔵像はかなり傷んでいるかのように見えました。

 

▼すぐにニノ鳥居が建ちますが、木々に覆われた参道は長〜〜く続きます。

あまりに長いのは別にして、真っ直ぐに長く延びる参道を持つ神社は訪問時の醍醐味でもあります。

▼参道途中に神橋らしき姿が見られ、かつては流れが存在していたのでしょう。

▼この場所が目黒区内とは思えず、振り返り何度もシャッターを押させます。

11月下旬の訪問でしたが境内の木々はこの先さらに色を深めていくことでしょう。

季節を選べば、この参道は23区内でもトップランクの美しさかもしれません。

▼一ノ鳥居から150〜160mくらい進むと三ノ鳥居です。

▼当社創建年は不詳ながら1817年の奉納記載などがある旨の教育委員会による説明板。

また昔から「癪封じの神」としても信仰され遠くからの参詣人で栄えたそうです。

癪とは胆石や胃など胸、腹の不調による痛みの総称です。

教育委員会ではなく、社伝によれば707年の創建とされています。

 

戦没者記念碑はどこの神社でも大きな石でできています。

▼そして神社に消防はツキモノ。

▼長い参道を抜け、数段の石段と玉垣を超えれば神域。

▼やはり目黒区内とは思えず、どこかの田舎の神社に来たような佇まい。

▼右手に「手水舎」です。

▼ここ数年、おなじみの清めスタイルです。

▼古そうな水盤は四隅で力士像が支えています。

▼社殿前の一対の狛犬は表情豊かです。

大正時代の造立は双方とも子獅子を抱えています。

▼拝殿をはじめとする社殿は江戸時代に再建されたものが改修を加え現存。

▼「氷川宮」の扁額。祭神の素盞鳴尊櫛稲田姫命大国主命にご挨拶。

▼江戸時代に造られた社殿らしく装飾彫刻が見事。

▼木鼻たちも高齢をいとわず現役で活躍しています。

▼「奥宮←」への案内板がありました。

▼社殿と社務所を結ぶ渡り廊下をかがんで潜ります。

▼左に本殿の様子が伺えました。

▼石段と鳥居が待ち構えています。

▼文字通りの境内奥に鎮座する「奥宮」です。

▼ここにも古そうな水盤。

狛犬は江戸時代末期の造立。

現代型では見られない優しげな表情をしています。

▼放火により焼失した社殿は昭和の再建。

倉稲魂命、足名槌命、手名槌命が祀られています。

足名槌命手名槌命は長野諏訪の足長神社手長神社で祀られている足摩乳命手摩乳命と同じ神でしょう。

倉稲魂命を祀る稲荷社でもあるので神狐たちも狛犬の奥で出迎えてくれます。

▼奥宮の隣に庚申塔が並びます。

かつては地域の人々が熱心に様々な神仏に手を合わせていた証です。

▼昔は「癪封じ」の神様として信仰された時期に大きな役目を果たしていた神木「赤樫」の株が残されています。

赤樫の皮を煎じて飲むと癪封じに効くといわれ、参拝者によりその皮が剥がされ、そのために木は枯れて、根本のみになってしまったそうです。

 

▼秋の例大祭では両手に剣を持ち、テンポ良く舞う「剣の舞」が奉納される神楽殿

▼神楽殿と連結された「額殿」。

数多くの奉納絵馬や奉納額を間近で見ることができました。

「剣」を描いた額や「大願成就」の文字が書かれたものもあります。

人々の真剣な信仰の篤さを物語っていました。

 

事前知識なく訪れたとしても、

清々しく雰囲気の良い静かな境内のあちらこちらで神社の歴史にも触れられ、

誰しも訪問して「良かった」と感じる氷川神社でしょう。

 

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