▼光松山 放生寺の御朱印です。(東京都新宿区西早稲田2-1-14)
二つの御朱印は右上の「霊場札所番号」以外は、まったく変わりがありません。
ですが、左の「御府内八十八ヶ所」の御朱印には墨書きで「弘法大師」の文字が加えられています。
2012年に「江戸三十三観音」を巡っていた記憶では、ここ放生寺だけは御朱印帳に直書きいただけなく、寂しく感じたことを覚えています。
その後の数度の参拝でも、やはり御朱印は書き置きのみの対応でした。
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▼と言うより「穴八幡宮」の隣と言ったほうが分かりやすいでしょう。
「穴八幡宮」は毎年「冬至」の日の午前零時から「一陽来復」のお札が授けられますが、冬至を過ぎて年末年始まで多くの参拝者で賑わい、神社が人で埋まります。
当初、金銀融通の「一陽来復お札」は「穴八幡宮」の専売特許と思っていました。
ところが、まるでケンカを売るが如くの位置に、
▼「穴八幡」の石段の下にこちらにも「一陽来福」がありますョ!のカンバン!
導くように同じカンバンが、いくつも立てられています。
▼寺の正面を道路の反対側から見ると、左が放生寺、右が穴八幡宮南側の鳥居。
神仏分離までは放生寺が穴八幡宮の別当寺だったことも容易に想像できます。
したがって放生寺でも金銀融通の「一陽来復お札」を授与されるのに不思議はなく、
東京でも「波除稲荷神社」、四谷「須賀神社」、港区「御田八幡神社」などがあり、
ほかにも全国的にいくつかの神社が授与されているようです。
穴八幡宮の「専売」は、モノ知らずの判断でした。
しかし放生寺をよく観察すると、提灯や幟などの文字は
▼すべて「一陽来復」ではなく「一陽来福」となっています。
「復」と「福」の違いは、
「梟」が「福郎」とも表現されるくらいの差かもしれません。
とは言え、辞書や wiki は「復」の表示となっています。
やはり「復」に遠慮して「福」としているのかも?
それにしても、あのカンバンが「力」を発揮なのか、
昨今、穴八幡宮と同様に冬至から年末年始まで賑わう放生寺になり、境内も時間をかけ綺麗に整備されました。
何しろ放生寺HPには
【金銀融通の御礼「一陽来福」創始のお寺として広く知られ親しまれております。】
と記載されているので、創始者としては負けていられません。
さまざまな側面で敵視し、対立するのではなく「競い合う」ことは悪いことではありません。
イイ意味での「ライバル」でしょう。
ところが、現実で目にするのは、
神社とかつての別当寺の関係が良好に見えるのは少なく感じます。
神社、寺ともに発展できれば良いのですが、多くはその知名度や参拝客数が寺か神社のどちらかに偏ります。
そこに「良好な関係」を見いだすのは無理がある場合もあるのでしょう。
寺社を運営するのは神仏ではなく、人間だからです。
さて、放生寺の本尊は聖観世音菩薩で、
江戸三十三箇所の第15番、御府内八十八箇所の第30番です。
1641年(寛永18年)に「穴八幡宮(高田八幡)」の別当寺として、同神社に隣接して創建されています。
そして、当時からは「虫封じ」のご利益がある寺として知られていました。
「虫封じ」の寺です。
現代の若者に「虫封じ」の意味を問っても正確な答えは返ってこないでしょう。
そこで寺のスローガンを
「虫封じ」から「金銀融通」にシフトしたのでしょう。
▼「金銀融通」の「福」の灯が輝きます。
「復」も「福」も仲良くあれ!と願うのは、
寺社と人間の関わり方が少し歪んでいるからかもしれません。