宗像・沖ノ島と関連遺産群が世界遺産に登録された。
ここに至るまでの地域の人たちと国の努力に敬意を表し、その喜びは、へそ曲りのわしにも理解できる。
単純に両手を挙げて、共に喜べれば、と思うのだが・・。
日本はUNESCOに、分担金と拠出金を40億円以上支払っている。タワーマンション最上階の億ション40戸分だ。「ええっ、そんなに!」なのか、「それっぽっち?」なのか?その数値の評価は人それぞれで、ハテナだわね。
しかし、その負担額は、実質世界1位の座にある。本来は日本より多い分担金を課せられているものの、ここ数年「未払い」状態にしているのは、わがままだが、力もある米国。
日本も「南京大虐殺」が記憶遺産になり、従軍慰安婦問題も申請されたことから、分担金の支払いを一時留保していた。「一時」である。ユネスコに対する「オドシ」だったのか? 現在は一時が解消され、完済のようだ。
世界遺産の登録決定が政治的に、また、金銭の動きで左右されているのは誰の目にも明確。どうやらUNESCOも、その組織は全くの公務員で、国際的組織だけに日本の官僚よりはるかに御し難い存在のようだ。
そんなUNESCOだから、米国に続いて日本も未払い状態が長引くと、自分たちの存在が怪しく危険に陥る。日本が示した、遺産決定に至るプロセスの改善案に取り組まざるをえない。
そして、今回の「沖ノ島」登録決定。
そこにUNESCO、ICOMOSの日本に対する「忖度」はなかったのか? 全く公正で、忖度無くて当たり前? もしくは、忖度していて当たり前?
胡散臭い、キナ臭い見本のような姿だ。
権威付け、ランク付け、格付け、章・賞付け、地位付け、肩書き付け、どれもが人を、その真実の姿から間違って理解させられる方向に導く可能性がある。
日本には21の世界遺産がある事になる。神社も数多く登録されている。
だが、もしかしたら、そんな胡散臭い泥沼のような中での選択もあったかもしれないと、へそ曲がりな眼で見つめなおすと、もうそんな「肩書き」は無くてもいいじゃないの?と思えてくる。観光客だけが増えて、その環境は限りなく世界遺産から遠のいていくように感じる。
勿論、遺産として人びとに意識させ、未来に引き継いでいくことは大切なことだ。
人の干渉をうけず、引っ掛き回されず、ひっそりとあるのが真の遺産かもしれないが、どうしても「世界遺産」の定義と矛盾してしまう。
もう世界遺産はどうでもよいのだ。
わしとっては、そんな権威付けから一番遠い位置にあっても、少なくとも世界遺産より頻繁に、毎日、毎週、毎月人びとが参拝に訪れ、時間的にも、経済的にも地域の人たちに連面と支えられ、守られ続けている神社、歴史も浅い神社から、千年におよぶ神社まで、これらの地理的に恵まれなく、境内も狭く、地域の七福神にも名を連ねていない、チッチャな神社のほうが、よほど親しみを持て、憩える聖地なのだ。そして紛れも無い地域の遺産であり、日本の遺産でもある。
きっと、わしも宗像大社より、春日大社よりも数多く参拝に訪れる事になるだろう以下に掲載した東京23区内の神社名・所在地は、あえて記さない。
言うまでもなく、これらの神社の選択に恣意はなく、いただいた御朱印をパラパラと見て選んだだけ。勘違いして不名誉と怒れる神社がありましたら、ゴメンナサイ!