藤原新也撮影の、沖ノ島の情景と国宝の写真展が東京・高島屋で 開催されていた。開催は今日1日までだ。入場招待券を手に入れたので、最後の週末になる日曜に覗いてみた。10日間あまりの開催期間のせいか、あるいは週末のせいか、かなり混雑していた。世界遺産に登録されて間もない、入場券を買う人の列ができても不思議ではない。
場内に入ると、いきなり床から人の背丈ほど、幅は3mほどの宗像大社沖津宮の写真に目を惹きつけられされた。
気にしなかったが、他の人が写真撮影していたので「撮影禁止」ではないのだろう。わしも iphone で撮影する。写真を写真に撮ることになるわけで、なんかヘンだが、深く考えないことにしよう。
場内の光源が落とされていて光量不足かボケてる。ホント、写真は下手だ。
写真展を見に行った経験は少ない。これまでの写真展は、大きく紙焼きした写真を額に入れたものが展示されている、とういのがわしの概念だ。大きくてもB3サイズかA2サイズくらいまでというのがイメージだ。
写真が完成するまで、今ではフィルム撮影・現像・焼付けというアナログ時代のプロセスを踏まないだろう。
デジタルの今は、素人なら撮影後、いきなりプリンターへデータを送れば写真の出来上がりだ。
この写真展の大型サイズの写真は、素人が写真をプリントする内容にプラスして、入力から出力までを最先端の機材を使用して、さらにそれぞれのプロの目で調整、補正したものだろう。
たしかに撮影されたものだが、いわゆる物理的な「写真」というイメージからは、かけ離れている。まさにプリントであり、ポスターであり、壁面に投影された画像だと思えてくる。
近頃の写真展はこんな見せ方をするものが多いのだろうか?
写真のウンチクはともかく、沖ノ島の情景には、その神秘性を感じさせられるとともに原寸大に近い大きさが、観る人を島の中に足を踏み入れたが如くに錯覚させる。
それにしても、島そのものが御神体という、人を寄せつけぬ、汚されぬ、持ち出されぬ、神聖な地に、わしらのほとんどは足を踏み入れて現実の姿を直接目にすることはできない。
大和朝廷時代から気の遠くなるほどの長い時間、掟といえども人の手によって犯されてこなかったことが奇跡のように感じる。
日本に残された唯一の秘境と言ってもよいだろう。
純金製指輪
金銅製頭龍
碧玉製勾玉
金銅製心葉形杏葉
日本の世界遺産さえ、数えるほどしか訪問していない。だいたいが感動の少ない人間だ。東京在住の人が東京タワーも、スカイツリーも訪問経験が少ないのと同様、相手は逃げやしない、いつもそこにある、いつでも行ける、とういう感覚もある。
しかし、この世界遺産は少し違う、いつもあるが、誰でも、いつでも行けない。そうなると、へそ曲がりには強力な魅力となる。単細胞だ。
以前、これ以上「もう世界遺産なんていらない」と言うような内容のことを書いた。しかし、この写真展に行って、そんな思いは完全にグラついた。そもそも遺産登録されなければ、自分の中では「宗像大社」と言う神社の存在以上の大きな意識対象にもなってないはずだ。
古代人とすれ違ってもおかしくないような島内の有り様に、どこよりも足を踏み入れてみたい誘惑にかられた写真展だった。
会場を出たら、九州本土から沖ノ島に向かって一人、小さな舟の艪を漕いでいる自分の姿が脳裏に描かれてた。幼稚だ。
といことで、宗像大社にも行ってないから、本日の御朱印掲載はおやすみ。