▼医王山 毛越寺の御朱印です。(天台宗・岩手県西磐井郡平泉町字大沢)
-----------------------------------------------------------------------------------------------------
▼中尊寺方面に向かう途中から毛越寺通りに入ります。ここは1000年前もメインストリートだったかもしれません。電柱のない綺麗な通りの前方に山門があります。
平泉の寺々はどこを訪れても参拝者でいっぱいです。
と言っても観光寺ですから、手を合わせて本当の意味で参拝する人は少ないのですが・・。
人のことは言えません。
ワタシもついこの前まで、いや御朱印に興味を抱く前はこの寺を「モウエツジ」と読んでいました。
世界遺産なのにです。
そもそも一般的には「越」の字を「ツウ」とは読みません。
せいぜいエチ、エツ、オチ、コシです。
ところが慣用音で「オツ」とも読むそうです。
それが「モウオツジ」→「モウツジ」→「モウツウジ」と変化したと、由緒書きに載っていました。
そんなことは本堂内の薬師如来も予想できなかったでしょう。
建立当時から「モウツウジ」と呼ばれていたのでしょうか?
ところで、この寺と周辺は明治以前は水田だったとか。
だから建物はすべて近世以降に再建されたものという事らしい。
「大泉が池」を中心とするこの典型的な平安時代の浄土庭園も、近年の発掘後に整備されたもの。
それでも毛越寺が世界遺産に指定されたのは、その遺構、礎石や土塁などが確かな形で残されていたからでしょう。
あえて言えば都から遠く、辺境の地であったからこそ荒廃後も開発されずに現在までに残されているということでしょう。
芭蕉も必死の思いで遠路平泉までやってきたのですから。
基衡、秀衡により、かつては中尊寺をしのぐ規模の伽藍が整えられていたそうです。
その数「堂塔四十余宇、禅房五百余宇」と吾妻鏡に記されているとか。
しかし、すべて火災と兵火によって失われています。
木造建築物の運命ですが、なんとも勿体なく、残念なことです。
それにしてもこの寺は、例えれば静かなクラシック音楽を聴いているようなイメージです。
西方極楽浄土の世界を再現しようとした広がる庭園のせいでしょう。
▼現世の泥沼のその上に高く咲く蓮の花は、極楽を彩っている花です。
▼「開山堂」では慈覚大師 円仁さんにごあいさつ。
▼かつての堂宇の跡が続きます。礎石が失われずしっかり残っています。
▼「大金堂圓隆寺跡」
▼1732年再建の「常行堂」です。
▼こちらはどなた様か不明。
▼常行堂の脇には池に山水をを引き入れる水路があります。
「遣水(やりみす)」と呼ばれ、やはり良好な形で残されていた遺構です。
5月にはここでは「曲水の宴」という平安時代の遊びが再現されるそうです。
▼ここも「法華堂」と「常行堂」の跡です。
それにしてもこの寺は、藤原三代が築いた仏国土 平泉の一部、藤原三代の理想宗教都市の一部でもあり、
100年続いたことを思うと、平泉は京都を意識しながらも、それに負けぬくらいの、また独自の「北の都」だったのでしょう。
基衡、秀衡も池の畔に立ったはず。
彼らはどんな夢を描きながらこの「出島と池中立石」を眺めたことでしょう。
1000年以上前に想いを馳せても、明確な姿は何も浮かびません。
藤原三代の「夢の跡」を後にして次に向かいます。