▼長久山 本成寺のご首題です。(法華宗陣門流 総本山・新潟県三条市西本成寺)
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西福寺、永林寺など雲蝶の作品、所縁ある寺を見てきて、この寺を最後に雲蝶ともお別れになりました 。
魚沼の永林寺からは50kmほど走らねばならなかった三条の本成寺(ほんじょうじ)。
雲蝶の作品がある寺社は、きっと他にもたくさんあるはずだが、あまりたくさん見ても感激はその都度、薄くなっていく!
ガツンとくるのは何と言っても新鮮さです。
雲蝶には悪いが、3寺目になると食傷気味になります。
新鮮な生活から熟年離婚へと変化していく男女の関係と同じようなものかな?
例えも悪いけど、西福寺では感激したものの彫り物に特別な興味があるわけじゃ無いから仕方ない。
後で知ったのだが、この寺に雲蝶が眠っている墓があるそうです。
いつものように事前知識を多く持たないから見逃しました。
見逃しても、まぁ、大してガッカリしてない。
普通、著名人の墓を訪れる時、その人の作品より肖像を思い浮かべることが多い。
しかし前回で記事にもしたが、雲蝶の肖像はないから墓に手を合わせに行ったとしても、本人の顔は浮かばず、作品だけしか脳裏に浮かばない。西福寺の強烈な彫り物だ。
だから墓を前にして亡き人を偲ぶというイメージではないわね、雲蝶の場合は。
▼それにしても赤門と呼ばれているこの寺の門はデカイ。さすが総本山。
▼こういうアングルが好きなんで・・。
▼こちらは南側の山門(三門?)
▼本堂。
▼屋根は正面からではなくこのアングルが好きなので・・。
根本道場なのです。
寺でよく使われている「根本」という言葉、言葉通りだろうけど、今ひとつ深く理解できない「根本」。
▼雲蝶でしょうね。もうほとんど時間がなかったのでウワッツラだけの参拝になりました。
それにしても江戸・雑司が谷に生まれ、名声もそこそこ得ていた幕末の江戸を離れ、雪深い越後でノミを振るう雲蝶の最後は三条!
様々なキッカケが揃っていたとしても何で越後? なんで三条?
どんな人物だったのか想像しがたい。
幕末から明治の越後なんて、雪と山と田圃と畑だけ。他は何も無かったはずです。
現在も大きく変わらないように思いますが。
でも、彼に江戸から東京へ名を変えつつある都のニギワイは仕事のジャマだったのか?
しかし想像するに越後には刃物の「鑿」だけは雲蝶も納得の品があったかもしれない。
ゲージツ家は道具さえあれば、あとは想像力とそれを具現化する力があるのかしら?
三条のイメージは洋食器を作り出す町。
しかしナイフ、フォーク、スプーンは発展途上国に譲らざるをえなくなりました。
彼らの国の方が安くできたから、多分。
で、産業としてはかつてほどの活気はないかもしれないけど、新たなイメージで三条の刃物が蘇っています。
東京に「合羽橋」という、飲食店様ご用達の街があります。
飲食店開業に必要な暖簾・のぼりに始まって、鍋釜の厨房用品・刃物、メニューサンプルまで見ているだけで楽しくなるほど何でも揃っています。
そこで売っている三条の刃物は最低1万円はしているかも? 上はキリが無い。
店には岐阜の関の刃物も同席しています。
近頃はそれを多くの欧米人、特に仏・伊の男たちがタメツスガメツ。
そして何本か仕入れていく! 包丁、ナイフを・・。
どうやってエアーで帰国するのか心配になります。無事帰国して持ち帰ってよ!
日本の刃物でフレンチでもイタリアンでも創ってよ!
ということで雲蝶も、きっと三条の「鑿」使っていたのだと推測。
「キレアジ、ホリアジが江戸の刃物より優れていて、ドンドン手が進んだ雲蝶は越後で数多くの作品を残すのだった」と勝手に想像します。
無責任に勝手に想像するほど楽しいものはない。どんな文献も知ったこっちゃない、誰にもジャマされません。
相変わらず、話がどこに飛ぶのかワカラナイ!
寺に戻ります。
境内は広大で伽藍も整っています。塔頭も幾つかあるようですが覗いているヒマなかったのです。
▼二重の塔。
▼千仏堂。
▼境内を出て寺を眺めてみました。この時期はグリーンと朱の対比が際立つ外からの眺めの方がいいようです。
明るく真っ赤な朱色は軽薄さを感じますが、少しくすんでいる深く暗い朱色は歴史も感じさせ、浮き足立ってなく落ち着きがあるわね。
この寺は、時間的余裕を持ってジックリ対峙すべき相手だったようです。
と思うけど、それにしては上の写真をご覧のように、境内はシッカリ手が入っていますが、GWの夕方近くは人っ子一人出会わなかったわねぇ。
御首題は笑顔で対応いただきました。さすが日蓮宗!