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御朱印迷宮

関東を中心とした寺社の御朱印記録です。参拝・収集目的に少しでも役立てば幸いです。

崖観音=大福寺の御朱印(千葉・館山市)〜崖にへばりつく観音堂、海に突きささる桟橋

崖観音御朱印

「がけかんのん」船形山 大福寺 真言宗智山派(千葉県館山市船形835)

 

大福寺御朱印です。

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千葉県で御朱印巡りをしていると、意識せずとも「安房国」何番という朱印に出会うことがあります。

安房国札三十四か所」は安房国にある観音霊場です。

 

崖観音はその第三番札所ですが、御朱印をいただいているほとんどの人が霊場は意識せずに単に「崖観音」として参拝していることと予想されます。

 

今時の若者、とりわけキラキラ御朱印を求める若者たちに「安房国」と記されていても正確に読める人は少なく、またその地域がどこか、知っている人も少ないかもしれません。

 

旧国名安房国」は房総半島の南端になりますが、大福寺はもう少し上総よりで、東京からだと館山の手前になります。

車で館山自動車道を走ると、山の中ばかりで少しも面白くありません。

富津市あたりから一般道のR127に出れば、海が見え隠れする海沿いの道になり、走っていても館山自動車道のように退屈しません。

 

▼そこから南下して富浦に入り、R127から離れてさらに海沿いの「内房なぎさライン」に車を進めると、山の中腹に大福寺の観音堂がへばりついているのが見えてきます。

f:id:wave0131:20191203132331j:plainこのルートを走る人は御朱印や寺に関心がなくても、崖に貼り付く赤い観音堂を遠望したら誰しも立ち寄ってみたくなるに違いありません。

それだけ観光的要素の高い大福寺ですが、拝観は無料です。

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関東地方には少ない懸造りの建物はポピュラーなところでは上野公園内の水観音堂や、ここと同じ千葉の笠森観音がなどが思い浮かびますが、山の中腹に浮遊するような景観は大福寺にはかなわないと思います。

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▼それだけに観音堂にたどり着くことも一苦労です。

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▼100段以上ある石段の途中には一息つけるような踊り場はありません。

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717年に行基が彫った磨崖仏の観音像を覆うような観音堂は、その後に慈覚大師が創建したと伝わりますが、ヒィヒィしながらやっと上り詰めた観音堂内は、下から見た時より感動は少ないかもしれません。

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しかし観音堂から眺める海は、急な階段を登ってきた甲斐があります。

東京湾から離れ、外海につながる館山湾です。半島の先端には洲崎神社があります。

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大福寺へはもちろん電車で内房線の「那古船形」を利用すれば、1kmほどの距離ですので歩けます。

 

話は変わりますが、

電車の場合「那古船形駅」の一つ手前の「富浦駅」で下車して寄り道しながら大福寺に向かうのがおすすめ。

車でも大福寺に向かう内房なぎさラインとR127が二股に分かれる手前500mほどのところで適当に海側に進んでみます。

▼最近、異国っぽい景観で人気が出たスポット「原岡桟橋」があります。

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実はワタシもまだ行ったことはありません。写真はすべてフリー素材からお借りしたものですが、ぜひ行ってみたい場所でもあります。

桟橋だけならに海に囲まれた日本には無数にあります。

キーとなっているのは、その「幅と長さ」に「電柱」だと思いますが、まるで海に突き刺さっているような感じがキーなのかもしれません。

f:id:wave0131:20191203132712j:plainこの写真を見て、とっさにある映画の衝撃的なラストシーンの荒野を思い出しました。

デビッドフィンチャー監督の「セブン」です。

▼こんな荒野が映画の衝撃的ラストシーンとなるのですが、電柱が鮮明な記憶となっています。よく見れば桟橋の電柱とは違いますが、雰囲気、イメージは似てなくもありません。

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最近、関東周辺でも従来観光地ではなかった人気スポットが多数紹介されています。

ネットが日常的な媒体となっているからこそ、こんな非日常的な空間が話題や人気となるのでしょう。

▼茨城の「石切山脈」なども行ってみたい誘惑にかられるスポットですが、原岡桟橋も含め、いつか御朱印とともに記事にできればと思っています。

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▼崖にへばりつく懸造(かけづくり)の寺院記事。

wave2017.hatenablog.com

唐招提寺の御朱印(奈良市)〜鑑真が目にすることが出来なかった? 天平の甍!

唐招提寺御朱印です。(律宗総本山・奈良市五条町)f:id:wave0131:20191202185228j:plain

▼同じく、鑑真大和上御朱印f:id:wave0131:20191202185235j:plain

▼同、御朱印帳です。f:id:wave0131:20191202185316j:plain

唐招提寺朱印帳は現在数種類あるようですが、2014年当時はこの1種類だけだったと記憶しています。

千手観音をモチーフにしているようですが、千手観音のどの部分をモチーフにしているのか全くわかりません。光背なのでしょうか?

当時はそんなことより、紺地に炎が燃え立つような金色のデザインは、ほかの朱印帳を抜きん出ている秀逸さを感じ、とにかく一冊手にして見てみたいと思っていました。

 

ご存知のようにその後は、デザイン的にも素晴らしく思える朱印帳が巷に溢れかえるようになりました。

 

数が多いと稀少感覚はマヒします。

現在に至るまで、この朱印帳に対して抱いた思いは、二度と体現できていません。

 

ちなみにこの唐招提寺朱印帳がオークションサイトに見かけられました。3800円という数字がついていました。

まだまだ、そんな愚か者がいることにタメ息です。

 

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唐招提寺は「鑑真和上」です。f:id:wave0131:20191202185258j:plain

唐招提寺は「天平の甍」です。f:id:wave0131:20191202185322j:plain

流れるような瓦が美しい「天平の甍」です。f:id:wave0131:20191202185347j:plain奈良を最初に訪問したのは、奈良をよく知らない頃、理解できない年齢の頃でした。

その後、井上靖の「天平の甍」を読み、「鑑真」を知って、2度目の奈良訪問には是非とも訪れたい寺社の一つになりました。f:id:wave0131:20191202185351j:plain742年、堕落する奈良仏教界を立て直そうと普照栄叡遣唐使に随伴して「伝戒の師」としての高僧を唐に探しに出ます。f:id:wave0131:20191202185339j:plain普照と栄叡の2人に請われて、弟子たちが尻込む中、55歳の鑑真自らが応じます。鑑真の苦難の10年間の始まりでした。

日本への渡航を試みること数回。

唐の時代、高僧が日本に渡ることは密航同然。さらに、海の難所の東シナ海に航路をとる危険な渡航計画は、密告や遭難などという挫折と立ち直りの連続。f:id:wave0131:20191202185303j:plainその間、栄叡が亡くなり、鑑真も失明しますが、当初の計画から10年目、不退転の決意は6度目にしてやっと成功、753年に漂着同様な形で薩摩に上陸します。

その時、鑑真はすでに64歳。心に激情を抱いた驚愕する不屈の精神の持ち主です。

その後、東大寺大仏殿に戒壇を築き、上皇から僧尼までの大勢に戒を授けたそうです。

f:id:wave0131:20191202185343j:plain▼ここ唐招提寺を創建し、戒壇を設置したのは759年。そして4年後の763年、76歳で亡くなり、鑑真の弟子が造らせ、国宝に指定されている肖像彫刻像が開山堂で眠っています。f:id:wave0131:20191202185334j:plain世界遺産となっている唐招提寺伽藍ですが、鑑真が存命中に建てる事ができたものは講堂だけでした。金堂が建立されたのはさらに20年ほど後の事でした。

 

東大寺では「お国にこれほどの大仏がありますか」と良弁に問われ、2年前に完成した大仏を前にしても、目も見えない鑑真は「さらに無し」とだけ答えています。

「今更、唐の国の方に教わるものはありませんよ」と言わんばかりの良弁の言葉に、鑑真が日本で築こうとした計画は容易に達成できるものではないことを感じた瞬間かもしれません。

 

▼鑑真が挫折を感じたかもしれない、心の中では失意の晩年を送ったかもしれない、そんな時代の都の大極殿が復元されています。f:id:wave0131:20191202185330j:plain

平城宮の東に張り出した部分の東院庭園。現在で言えば迎賓館のような役目を果たしたそうです。f:id:wave0131:20191202185400j:plain1200年の彼方、大仏同様、既存の巨大な権力が鑑真の前に立ちはだかる様子が見えてきそうな平城宮跡でした。f:id:wave0131:20191202185355j:plain

 

三河稲荷神社の御朱印(東京・文京区)〜神社から紅葉の本郷水道公苑散歩へ

三河稲荷神社御朱印です。(東京都文京区本郷)f:id:wave0131:20191202125004j:plain

いただいた由緒書きに「三河稲荷神社(三九様)」とありました。

サンキューさまって何ですか?」とお聞きしたところ、

さんくさまです」とい教えられ、かつては3と9の日の縁日が大いに賑わい「さんくさま」と呼ばれるようになったとか。

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本郷通りを順天堂方面から北に向かうと「壱岐坂上」という交差点を左折すると、そこは「壱岐」になります。

坂は広い道路で、後楽園遊園地が目の前になる「壱岐坂下」まで続きます。

神社は坂の途中の「壱岐坂通り」という信号のある交差点を北に入るとすぐ見つかります。

東京の街は江戸時代から坂だらけです。現在23区内では名前のついた坂が700以上あるそうです。

ここ「壱岐坂」も江戸時代からあり、周辺の武家屋敷の名称からその名になったようですが「壱岐」が誰なのかは諸説あって定かではないようです。

いずれにしても江戸時代のこの地域にこんな広い道路があったわけはなく、元々の「壱岐坂」は当然もっと細く、現在の「壱岐坂」と斜めに交差しています。

 

▼三川稲荷神社はそんな「新壱岐坂」と「元壱岐坂」に挟まれたような場所にあります。
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御朱印は上の写真の階段を上がった社務所でいただきました。

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道路に沿った鳥居から拝殿までわずかの、小さな神社です。

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▼社頭や幟、由緒書きにも「三河稲成神社」と記されていますが、額は「三河神社」。

拝殿の扁額にも「稲荷」の文字がありませんでした。

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東京で「三河稲荷神社」という名称の神社は他にありません。ここだけです。

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三河」は昔の行政区分ですが、

三河」というとTVアニメの「サザエさん」一家の御用達酒店です。三河屋の三平さんは誰もが知っているキャラです。

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東京では「三河」は、「伊勢屋」や「近江屋」ほど数が多くはないかもしれませんが、ほとんどがサザエさんの「三河屋」のように酒屋さんです。

他には味噌、醤油なども扱い、醸造商品を商う店の代名詞のようになっています。

日本の家庭に必ず1本は必ずある、
あの「ミツカン ポン酢」の本社も三河に接続している愛知県の半田市にあります。

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呉服店の名称に「越後屋」が多いのと同様に 「三河」は酒屋の俗称にもなっていますが、当時は三河では醸造業を営む者が多かったのでしょう。

また、扱う品目にかかわらず三河出身者が店を出すときに「三河屋」が使われていたことは少なくありません。

現在ではコンビニになったり、カタカナ名称に変更されたりで、すっかり目にしなくなった「三河屋」ではありますが・・・。

 

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ここ「三河神社」の名称も当然、愛知県の三河に由来します。

由緒書きによると現在の豊田市にあった稲荷社に戦勝祈願した徳川家康が、1590年の江戸入国の折に奉遷したと書かれています。

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そして江戸時代から明治の寺社分離を経て、現代に至るまで何度も遷座して現在の地に落ち着いたようです。

f:id:wave0131:20191202125036j:plainきっとその都度、神社は大きくなったり、狭くなったりしていったのでしょう。

穀物の神様ですが、都市にある神社は引越しなどで、どの神も何かと忙しい思いをしてきており、これからも続くことかもしれません。

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▼その直近の引越しの原因にもなった設備が神社の近所にあります。

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明治26年にできた本郷給水所。給水、配水設備だそうですが正確にはどんな役割を果たしているのかわかりませんが、その上部に人工地盤が造られ「公苑」が広がっています。f:id:wave0131:20191202125100j:plain

近所の子供たちや親子連れ、カップルが憩っていますが、和風と洋風庭園とがあり、12月1日は紅葉が見頃でした。

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都心で紅葉を見られるところはそんなに多くの記憶はありませんが、季節のオアシスのような場所は都心でも、ふとしたところに隠れているようです。

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f:id:wave0131:20191202125118j:plain公苑のすぐ隣には「東京都水道歴史館」などもあり、本郷、後楽園周辺の寺社巡りにはちょっと寄って見たいスポットが点在しています。

宇迦八幡宮の御朱印(東京・江東区)〜チリアクタと カイタクと カタクリと ロッカク

宇迦八幡宮御朱印です。(東京都江東区千田)f:id:wave0131:20191125203040j:plain

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宇迦八幡宮御朱印で人気の猿江神社からは小名木川を挟んで400m〜500mの位置。

東京都神社庁のページからの由緒の引用です。

亨保年間(1720年)近江の国の人千田庄兵工氏此の地に来り、時の幕府徳川八代将軍吉宗公に願い出て、此の土地を開拓せんと3年の長きを費やして村造りを固めなし、其の氏をとって武蔵野国南葛飾郡千田新田と名付けらる。後に寛政九年村全体が一橋家の領家となったので一橋領十万坪とも称したり。
 当神社はその当時小さな祠であったが、千田庄兵工敬神の念篤く、神殿を造り千田神社と称し土地の産土神として崇められる。
 たまたま土地に穀物の実らざるを嘆き当神社に祈願を籠め、神霊のお告げを受けて、これに代うるに片栗を栽培して農民の飢餓を救ったという古き伝説の故を以て、片栗八幡宮とも称す。

このブログでは滅多に文章の引用はしていませんが、いざ利用させていただくと、東京都神社庁のページは、どの神社の説明も至って簡潔で分かりやすい。

もう他に何の言葉もいらないのです。

f:id:wave0131:20191125203056j:plain江戸時代初期の隅田川東岸は干潟のような土地で、葦原が広がるばかりで何の利用もされていなかった土地だったのでしょう。

 

渡し舟はあったかもしれませんが、隅田川の対岸に渡れた橋は、1660年頃に両国橋が架けられる前は「千住大橋」が一つだけでしたので不便極まりなかったことでしょう。f:id:wave0131:20191125203123j:plain隅田川東岸の葦原が開発され出したのは両国橋が架かってからのことでしょう。

両国橋ができて60年後くらいに、由緒に書かれている近江屋庄兵衛が数年間を要して開拓し、やっと人が住める、田畑に利用できるくらいの村になったということでしょうか。

そこに小さな祠ができて、この神社の起こりとなったのでしょう。

庄兵衛の氏が千田ということで、現在もその名が地名に残されているというわけです。f:id:wave0131:20191125203100j:plain開拓前は干潟や葦原が、江戸から出る塵芥の処分場だったそうです。いわゆるゴミ捨て場、同じ江東区の現在の「夢の島」と同様です。f:id:wave0131:20191125203139j:plain江戸時代のゴミなど、現代に比べたら質量ともに何ほどのことはなく、まさにチリアクタだったのでしょうが、やはりそんな土地に良い作物ができるわけありません。f:id:wave0131:20191125203106j:plain祭神は「宇迦之御魂命」で穀物の神様。

その穀物のできない飢饉の折にはお告げにより「カタクリ」を栽培して餓えを凌たとのことで、この神社も「片栗八幡宮」の別名があったようですが、あの「片栗粉」のカタクリです。

現在の「片栗粉」はカタクリは使われず、ジャガイモのデンプンから作られていますが、当初はカタクリから作られた「片栗粉」でした。f:id:wave0131:20191125203629j:plain餓えを凌たカタクリの栽培だったのですが、あのカタクリのどこを食べたのでしょう?

f:id:wave0131:20191125203127j:plainもともとカタクリの根茎を利用して片栗粉が作られていたものの、その根茎はカタクリの全体からしたら僅かな部分。

そんなことからもジャガイモが代用されるようになった理由の一つです。

 

カタクリはこんな花です。f:id:wave0131:20191202103730j:plain

そんな僅かな根茎の部分、または新芽や若葉を食料としたのでしょうか?f:id:wave0131:20191125203131j:plainなかなか想像しにくい「食料」ですが、地域の飢饉を救ったことは確かだったのでしょう。

御神木の銀杏の大木はギンナンを想起させられますが、カタクリより、こちらの方が食料としては、かなり分かりやすい植物です。

 

ところで最近、このブログでは掲載写真とは直接関係のない言葉が写真の間に続く事が度々あります。これまでにも書いてきた事ですが、訪問先の寺社の紹介文、説明文には正確で親切丁寧な他のブログが沢山ありますので・・。

そんなわけですが、

ここ宇迦八幡宮は、この地域では緑が多く境内も広く、立派な社殿を持っていたことに意外性を感じました。

▼また、境内のここだけは何か特別な気配を感じさせられました。f:id:wave0131:20191125203109j:plain

▼仏様が彫られている塔は「法華経千部供養塔」という六角宝塔だそうです。f:id:wave0131:20191125203625j:plain▼造立された江戸時代初期の空気感がすっかり溶け込んでいます。f:id:wave0131:20191125203114j:plain

▼人によっては陰鬱にも感じられる場の空気を「身代わり地蔵」が和らげていました。f:id:wave0131:20191125203143j:plain

 

駒込妙義神社の御朱印(東京・豊島区)〜この古社で太田道灌が戦術を練った?

駒込妙義神社御朱印です。(東京都豊島区駒込f:id:wave0131:20191125201312j:plain

御朱印をお願いすると、速攻で戻されました。

ほとんどスタンプと印で埋められているので早いわけです。それでも日付はきちんと筆書きされていますので、不満などありません。ありがとうございました。

 

これまで直書きでも朱印帳の戻しが一番早かった記憶は、袋井市の「油山寺」でした。見開きで2つの御朱印をアッという間に筆書き。1分も経過しなかったように記憶。

思わず戻された朱印帳を確認してしまいました。

2体の御朱印はきちんと揮毫されていました。あたりまですが・・。

混み合う駅で出てくる立ち食いそば並みの早さでした。

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JR山手線「駒込駅」北口の前の本郷通りは北に向かって下り坂になっています。

日光御成道」とも呼ばれる、その本郷通りの坂を降れば神社参道の案内があります。

 

▼脱線しますが、そこを通り越して本郷通りをもう少し先に行くと「霜降橋」という交差点の手前から「霜降橋銀座商店街」が左手に延びています。f:id:wave0131:20191125201356j:plain戦後からある商店街だそうですが、道幅3〜4mくらいでしょうか? 下町の商店街が生き延びるにはベストな道幅です。

車が通れる道幅にしてしまうとシャッター通りになってしまうかもしれません。

かつては川があった「霜降橋」という、どこか哀愁のある名称とともに、いつまでも残って欲しい商店街です。

f:id:wave0131:20191125201344j:plainとは言え、山手線内でありながら駒込については、そもそも豊島区ではなく文京区かと思っていたくらいで、何も知りません。

思い出せるのは駅近くのしだれ桜で有名な「六義園」、そして同じく桜の「ソメイヨシノ」発祥の地であること、さらに染井霊園くらいでしょうか。

f:id:wave0131:20191125201353j:plain本郷通りはこれまで数え切れなきくらい車で走り抜けていますが、通りからは見えない神社に気づくはずもありません。f:id:wave0131:20191125201348j:plain一の鳥居から石段を登るとすぐ二の鳥居で境内になりますが、商店街や住宅街に囲まれた中にあるので境内は広いわけがありません。f:id:wave0131:20191125201322j:plainそれでも日本武尊を祀るこの神社は豊島区では最古と伝わります。春の季節になれば桜の花で覆われた境内は見事なことでしょう。

 

▼恥ずかしながら「舊趾」はここ数年で読めるようになりました。「きゅうし」です。旧跡に同じですね。f:id:wave0131:20191125201331j:plain戦勝を祈願したという太田道灌ゆかりの神社は、かつては道灌の木像や、道灌が奉納した刀剣や古文書など様々な社宝があったそうですが、戦中の空襲により社殿もろとも全てを失ってしまったそうです。f:id:wave0131:20191125201341j:plain道灌霊社の左右には、社殿再建の際の工事により土中から掘り出された江戸時代の庚申塔がありますが、もう表面は劣化していてハッキリしません。f:id:wave0131:20191125201336j:plain

かつて太田道灌がここに立ち、戦いに備え戦略を練っていたかもしれない、そんな姿に思いを馳せ「駒込染井村」の境内を後にします。

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