朝早く東京を車で出る。
どこへ行くにも一人の時の高速利用率は0〜50%だ。
例えば50%、行きは下道、帰りは高速利用、往復首都高だけの利用など。
秩父への往路は、当たり前に下道R299を飛ばすトラックと前後してクネクネ山間を進む。
秩父34札所巡りは、このパターンを2回繰り返しただけで、いわゆる「結願」してしまった。
車利用とは言え、34ヶ所を2日間である。
オドロクことに旅行会社の売り物でも、2日間で34ヶ所巡り終えるバスツアーがある。
自分の車で巡っても、2日間で34ヶ所はヒィーヒィーだ。
バスツーの添乗員は巡礼者と御朱印をどのようにコントロールするのか、同道して確かめてみたいものだ。
とにかく、2日間で34寺と御朱印だ。
何も覚えて無い、覚えられないに等しい。何も得られないのだ。
情報としての御朱印と少しの写真だけが手元に残るだけだ。
2011年に初めて手にした御朱印は5つだけだった。
御朱印帳とmacをひっくり返さなくとも、5つの寺の姿と御朱印の筆跡も明確に脳裏に思い浮かべられる。
寺社の有り様も、そこでいただいた御朱印も反芻できたから、それぞれ脳に刻まれている。
しかし、
2012〜2013年には、江戸33、鎌倉33、東国33、関東36を巡り終え、その間、数え切れないほどの寺社も巡っている。
もう何も何処も、寺社と御朱印の記憶は大混乱の中にある。次から次へだから寺社の写真や御朱印を眺め回す時間も僅かなものになる。
都内の寺社や、全国的に有名寺社の様子は知ってる限りの話は人にもできる。
だが記憶の中で、いただいた御朱印とリンクされている寺社の姿はごく少数だ。
ましてや寺社の由緒、祀神、本尊など決して覚えられないわ。
覚えられなく、語れないということは知識が無いということにつながる?!
御朱印コレクターは、収集の数に反比例して寺社と御朱印の知識が乏しくなる、薄くなる!
いやオボロげな記憶は、比例することになるかな!?
毎度のことで、なにが言いたいのか分からなくなってきた。
2014年に結願した秩父札所。28番から34番で脳内の明瞭な絵は、28番橋立寺と結願の水潜寺だけだ。あとはごちゃごちゃ。
秩父札所と向き合い、スタンプラリー的行動で終わらせてしまった軽薄な自分を恥じているということだ。
この秋、数寺だけでも再訪し、今はスタンプラリー的状況から離れられた自分を確認しに行ってこようかしら。
「行った、行った」「もらった、もらった」だけの御朱印と寺社にしないために・・。
▲30番 瑞龍山 法雲寺・臨済宗建長寺派・埼玉県秩父市荒川白久